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個の広がり

今の時代に違和感があり家庭にひきこもる人達が増えています。ニートと称されますが、これもいくつかに分類され、まったく部屋からでないで、呼びかけにも応えず、家人が寝静まってから部屋から出て必要なことをする「完全なひきこもり」、次に、家人とは普通にふるまうが、家から一歩も出ない「標準ひきこもり」があり、近くのコンビニに出向くことや、外部とネットを通じて対戦ゲームをする「自称ひきこもり」がいます。それぞれに思いや言い分はあるのでしょうが、行動などの現象は違っています。

以前に仏教の千日回峰行のように山奥に一人で位置して、昼夜を過ごす暮らしをしている方にお聞きしたことでは、もともと他者と話すことは苦痛ではないけれども、好んで会話をするタイプではない方が、修行に近い行いが長期化すると、人に対する思いや接し方に変化が生じてきたとお聞きしたことがありました。その方は、社会で普通に暮らしていた時は、人づきあいの煩わしさや面倒さを感じていましたが、相当な期間、まったく人と会わなくなると、無性に人が恋しくなり、人里に降りてきたくなるとのことでした。

いつもは社会にいると雑踏がつらくなるのですが、長期間、まったくそれらがなくなると逆にそれが恋しく、求めるようになるとのことならば。仏教の千日回峰行は人の持つ本能との葛藤に近く想像を超えるものであり、達成した人が非常に少ないのかもしれません。

人間生物学では、人は本能として、集団の生き物であり、一定以上の他人と共に生活空間を供するようにできていると言われます。また人に対する思いやりの感情についても、本能的に持ち合わせているとされています。

このような性質を持つ人間が完全に引きこもる、ないしは奥地に一人で暮らす生き方を選択する、その動機に興味が湧いてきます。社会的な孤独は本能的な孤独とは違うものであるとの見解もあるようですが、山野で自然のままに生きてきた数万年前と、近代的な都市ができた現代とは、以前の時代とは違う暮らしの環境があるように思う方もいるでしょうが、雑草や木々が、コンクリートや鉄骨の人工物に代替しただけで、大した違いがないと想定すれば、なぜ、現代にひきこもりがあるのか、それが本能との葛藤にどのように対応しているのか思うところがあります。ただ、心配することは、3年程の期間引きこもると多くの方が精神疾患を発病する可能性が高くなるとのことなので、注意してもらいたいものです。

個人の権利や主張を尊重することになれば、現代を一人で生きることもよし、また集団で暮らすも良しとすることになるのですが、障害者の就労を支援する福祉活動をしていますと、“人は働くことで初めて成長する、働くことは人として生きる大切な行ないである”との思いを深くしています。孤独に本能と葛藤することもいいのですが、他人とありきたりのまるで縁側のような会話をすることも意味深く楽しいものです。

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