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偏見と普通

4年前に神奈川県相模原市にある知的障害者の入所施設「津久井やまゆり園」で元職員による大量殺傷事件がありました。重度の障害で日常生活に困難さがある人たちが主に被害を受けました。犯人は逮捕され判決が確定しましたが、なぜ彼がこのような事件を起こしたのかが不可解でなりません。報道では、重度障害者は生産活動ができないので社会の役に立たない存在だと断定した供述があったとのことです。反面、被害にあわれたご家族は、大切な子や兄弟を失い悲しみの気持ちを伝えていました。

社会で生きることの権利は個人にあり、それを誰も阻害してはいけないことは周知のことですが、現代では考え方が多様になり、そこから生きることの意義や価値につなげることは自由に発想できますが、偏った思考からそれを行為として実行した時点で多くの犠牲が生じることになります。考え方や価値観の違いがあっても、行為に走ることを踏みとどまることが、社会で生きることの最低条件になります。

人は長い歴史から議論を重ねて多くのルールをつくり、それが守られることで社会の秩序が保たれることを知り、理解することになりました。民主主義の時代になり、個人の権利が明確になると、私たちはようやく自由に考え、行動できる社会を作り上げてきました。多くの法律や制度は国民の賛同を得て作られ、多少の異論があっても、それを順守することを大切にし、そのような人を「普通の人」と表現してきました。それがいつしか、考え方が違う人を「普通でない人」として作り出し、壁を作り、さらに考え方だけでなく、身体や精神上の違いにも発展して、それが障害などでバランスよく活動できない人たちに向けられるようになりました。

今の時代も、まだまだ最大多数の最大利益を主張される方は多くおられますので、「普通」な人の集団からこぼれ落ちた「普通」じゃない人が、ダイバーシティの考え方を主張しても、簡単には理解され広がっていきません。これから社会が成熟するためには、「普通」の領域を広げることにあると思います。優位で特別な存在である人と共に、障害のある方も含めて、みんなが「普通」であるとの考え方を基本にできる新たな社会を目指したいものです。

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